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경복궁이야기

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乾清宮

解說: 最も最後に建てられた建物、コンチョングン(乾清宮)です。 没落した王族、王位継承と全く関係ないまま暮していたいたずら少年が ある日突然王様になったとしたら、どんな心境でしょうか? 朝鮮王朝の最後の王、コジョン(高宗)王は12才のある日、 いたずら少年から王様になります。 しかし、 名前だけの王様で、思いのままにできることは何もありませんでした。 父親のフンソンデウォングン(興宣大院君)が摂政をしたためですが、 10年後、「位置が人を作る」という言葉のように、コジョン(高宗)王の心の中には 朝鮮の王様として自覚が生まれ、夫人であり賢明な政治パートナーであった ミョンソンファンフの激励に力づけられ、父親の陰から抜け出して 直接国を治め始めます。 ここ、コンチョングン(乾清宮)はコジョン(高宗)王が親政を始めた1873年、 私費で建てた宮廷です。 父親が建立した「キョンボックン」でない自分だけの宮廷を造ったわけで、 伝統的な宮廷様式というよりは、 一般の韓国式家屋のように建てらました。 幼い頃、自分が暮していた宮廷の外の世の中が懐かしかったのでしょうか。 コジョン(高宗)王は大部分の時間をこちらで過ごされたといいます。 朝鮮王朝実録、1895年陰暦7月15日には チャンアンダン(長安堂)に出ていかれて、 「日本の前公使、井上馨(イノウエ・カオル)と新しく赴任した公使、 三浦梧楼(みうら・ごろう)を接見した。」と書かれています。 そして、1895年、陰暦8月20日(陽暦10月8日)朝鮮王朝実録には 悲しい話が記されています。 卯時(うのとき)、即ち朝6時頃、 王妃が、コンチョングン(乾清宮)コンニョンハプ(坤寧閤)で逝去。 石塚英蔵(イシズカ・エイゾウ)が 日本政府の法制局長官である末松謙澄(スエマツ・カネスミ)に 送った報告書を 基に書いた山部健太郎(ヤマベ・ケンタロウ)の「日本の韓国併合」には、 1895年10月7日夜から翌日早朝にかけて、 日本軍守備隊と浪人の一団が刀を抜いてキョンボックンに押し入り、 ミョンソンファンフを惨殺して、その死体に石油をまいて火を付けてしまった、 と書かれています。 当時、全世界を騒がせた事件でしたが 三浦梧楼(みうら・ごろう)を含む日本人たちは 証拠不十分で全員赦免(しゃめん)されました。 さまざまな資料を基にミョンソンファンフ(明成王妃)が亡くなったところは コンチョングン(乾清宮)の中の「オクホル(玉壺樓)」だと考えられています。 「忘れられた歴史は繰り返される」という話があります。 悲しい過去が繰り返されない日韓両国の平和な未来のために、 オクホル(玉壺樓)を通る時、 ミョンソンファンフ(明成王妃)のために冥福を祈っていただけたら幸いです。

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